源冷
源 冷 | |||||||||||||||
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參議 | |||||||||||||||
國家 | 日本 | ||||||||||||||
時代 | 平安時代 | ||||||||||||||
主君 | 仁明天皇→文德天皇→清和天皇→陽成天皇→光孝天皇→宇多天皇 | ||||||||||||||
氏 | 源氏 | ||||||||||||||
姓 | 皇族→源朝臣 | ||||||||||||||
假名 | みなもと の すずし | ||||||||||||||
羅馬拼音 | Minamoto no Suzushi | ||||||||||||||
位階 | 從四位上→正四位下→從三位 | ||||||||||||||
世系 | 仁明源氏 | ||||||||||||||
出生 | 承和2年(835年) | ||||||||||||||
逝世 | 寬平2年2月25日(890年3月19日) | ||||||||||||||
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源冷(日語:源冷/みなもと の すずし Minamoto no Suzushi,835年—890年3月19日)是日本平安時代初期至前期公卿,父親是仁明天皇。官位為從三位參議。
生涯
承和15年(848年),源冷與異母兄弟滋野繩子(滋野貞主之女)之子本康親王一同在清涼殿元服[1]。嘉祥2年(849年),源冷直接升至從四位上,並且姚嘉祥3年(850年)出任讚岐守。
仁壽4年(854年),源冷獲任命為右馬頭,重返平安京,但是其後先後在齊衡3年(856年)出任但馬守、齊衡4年(857年)就任近江守、貞觀3年(861年)為伊予守、貞觀6年(864年)是播磨權守和貞觀10年(868年)成為相模權守,多次擔任地方官。貞觀13年(871年),源冷升至正四位下[2]。
貞觀15年(873年),源冷獲任命為宮內卿[2],再次重返平安京,及後於貞觀19年(877年)兼任右兵衛督。元慶6年(882年)源冷升任為參議,位列公卿[2]。作為太政官,源冷同時兼任宮內卿和左右兵衛督[2],最終在仁和3年(887年)升至從三位。
寬平2年(890年),源冷在宇多天皇任期內死去,享年56歲。
官歷
[3]。
- 嘉祥2年(849年)正月20日:從四位上
- 嘉祥3年(849年)正月15日、5月17日:讚岐守
- 仁壽3年(853年)7月1日:讚岐守
- 仁壽4年(854年)8月28日:右馬頭
- 齊衡3年(856年)正月12日:但馬守
- 齊衡4年(857年)正月14日:近江守
- 貞觀3年(861年)正月13日:伊勢守
- 貞觀6年(864年)正月16日:播磨權守
- 貞觀10年(868年)正月16日:相模權守
- 貞觀13年(871年)正月7日:正四位下[2]
- 貞觀15年(873年)正月13日:宮內卿[2]
- 貞觀19年(877年)
- 元慶6年(882年)2月3日:參議,留任宮內卿、右兵衛督[2]
- 元慶7年(883年)正月11日:參議、宮內卿、右兵衛督兼伊予權守[2]
- 仁和3年(887年)正月7日:從三位
- 仁和4年(888年)9月9日:左兵衛督[2]
- 仁和5年(889年)