兼明親王
此條目沒有列出任何參考或來源。 (2016年8月21日) |
兼明親王 | |||||||||||||
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日本親王 | |||||||||||||
國家 | 日本 | ||||||||||||
時代 | 平安時代 | ||||||||||||
名 | 兼明 | ||||||||||||
封爵 | 親王 | ||||||||||||
別名 | 前中書王、御子左大臣 | ||||||||||||
出生 | 延喜十四年(914年) 平安京 | ||||||||||||
逝世 | 永延元年九月二十六(987年10月21日(73歲)) 平安京 | ||||||||||||
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經歷 | |||||||||||||
一品親王、中務卿 | |||||||||||||
日語寫法 | |
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日語原文 | 兼明親王 |
假名 | かねあきらしんのう |
平文式羅馬字 | Kaneakira shin nō |
兼明親王(914年—987年10月21日),日本平安時代中期的公卿及皇族,醍醐天皇的第十一皇子。
曾被臣籍降下稱源兼明。史載他博學多才,有前中書王之稱,以呼應其外甥後中書王具平親王,也和藤原佐理、藤原行成並稱三蹟。
生平
承平二年(932年)兼明親王遭臣籍降下,賜源姓,初敍從四位上。後曾做過播磨權守、右近衛中將・左近衛中將等職務,至天慶七年(944年)就任參議。後來順調累進權中納言、中納言、從二位大納言。
天祿二年(971年)擔任左大臣。貞元二年(977年)因源昭平上疏而復為親王並任二品中務卿。寬和二年(986年)辭任中務卿並隱居嵯峨野。
親王歌
- 七重八重花は咲けども山吹の實の一つだに無きぞかなしき (後拾遺1154)
血緣
系圖
(60)醍醐天皇 | (61)朱雀天皇 | 廣平親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(62)村上天皇 | (63)冷泉天皇 | (65)花山天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
兼明親王 | 致平親王 | (67)三條天皇 | 敦明親王(小一條院) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(源)高明 | 為平親王 | 禎子內親王 (後三條母、陽明門院) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(64)圓融天皇 | (66)一條天皇 | (68)後一條天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
昭平親王 | (69)後朱雀天皇 | (70)後冷泉天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
具平親王 | (源)師房 〔村上源氏〕 | (71)後三條天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||