新庄藩 (出羽国)
新庄藩 | |
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外样大名→愿谱代 城主大名 | |
日语汉字 | 新庄藩 |
平假名 | しんじょうはん |
罗马拼音 | Shinjō-han |
创藩日期 | 元和8年10月19日(1622年11月21日) |
创藩理由 | 加增 |
所在地 | 日本出羽国最上郡新庄 |
藩厅 | 新庄城 |
大名家 | 户泽氏 |
伺候席 | 柳间→帝鉴间 |
石高 | 六万石→六万八千二百石 |
藩校 | 明伦堂 |
人口 | 43,951人 |
废藩日期 | 明治4年7月14日 (1871年8月29日) |
废藩理由 | 废藩置县 |
新庄藩(日语:新庄藩/しんじょうはん Shinjō-han */?)是位于日本出羽国最上郡新庄(现山形县新庄市)的藩,成立于元和8年10月19日(1622年11月21日),高峰期石高是六万八千二百石,藩厅是新庄城,藩校是明伦堂,明治4年7月14日(1871年8月29日)废藩置县。人口方面,延宝6年(1678年)时是1,350户53,370人,延宝8年(1680年)是1,042户52,560人,宽政6年(1794年)是7.501户41,506人,文化9年(1812年)是7,707户43,951人,全部均不包括藩士[1]。
江户藩邸方面,位于樱田(现东京都千代田区日比谷公园)的上屋敷毁于明历大火后转移至位于青山(现东京都港区青山一带)的下屋敷,其后重建樱田上屋敷。宽文8年(1668年)11月,青山下屋敷毁于火灾,翌年6月在本所三目(本所三ツ目,现东京都墨田区绿四丁目内)的下屋敷完工,宽文11年(1671年)2月从樱田上屋敷迁移至此,宽文12年(1672年)再转移至木挽丁筑地(现东京都中央区筑地一至三丁目一带),宝永元年10月26日(1704年11月23日)拜领饭仓狸穴町(现港区东麻布二丁目5-21番地,东京美国俱乐部附近[2])的上屋敷,正德3年(1713年)5月以本所下屋敷换取麻布白银御殿遗址(现港区南麻布四丁目的法国驻日本大使馆[3])作为下屋敷,享保13年(1728年)以筑地中屋敷换取白银剩余的地方作为中屋敷(现港区白金一丁目、三丁目和五丁目一带)[1][4][5]。
此外,新庄藩在玉造上清水町(现大阪府大阪市中央区上町一丁目一带[6][7])设有藏屋敷。另外根据《日本历史地名大系》的说法,新庄藩在下丰泽村(现东京都涩谷区惠比寿一至四丁目、惠比寿南一至二丁目、惠比寿西一至二丁目和广尾二丁目和五丁目一带)设有抱屋敷,新庄市则指在广尾设有下屋敷[1][2]。
历史
出羽山形藩最上氏被改易后,常陆松冈藩主户泽政盛在元和8年10月19日(1622年11月21日)从四万石加增至六万石而入主新庄,翌年7月进驻最上氏家臣鲑延氏的居馆真室城,宽永2年3月7日(1625年4月13日)通过检地和开垦新田,新庄藩的表高增加至六万八千二百石,同年9月开始普请新庄城,由鸟居忠政负责绳张[1][8]。
庆安3年8月7日(1650年9月2日),户泽正诚继任为藩主,他在万治3年5月6日(1660年6月13日)杀害家老片冈理兵卫一家(片冈骚动),从而巩固自己的权力,在宽文2年(1662年)和延宝6年(1678年)又先后实施检地,宽文8年(1668年)时又将地方知行改为藏米知行,其后在天和年间(1681年至1684年)确立年贡制度,缔造新庄藩在元禄至正德年间(1688年至1716年)的全盛时期,其中元禄13年(1700年)的年贡收入达约13万零200俵,为历年最高,人口也在元禄16年(1703年)达至顶峰的约58,000人。另一方面,这些政策也导致财困,新庄藩不得不向豪商借贷,在宝永7年(1710年)还实施借上[1][9]。
户泽正庸就任藩主后尝试力挽狂澜,在享保3年(1718年)发布俭约令,又限制进出口以及尝试增加农村人口,不过效果有限。其后,第五任藩主户泽正谌以家老北条六右卫门来推动改革,不但削减藩士的俸禄,又在宝历6年3月7日(1756年4月6日)向幕府借三千石米,以及在安永4年(1775年)实施地押,改革虽然参照米泽藩主上杉治宪的模式来进行,但是未能取得成功。雪上加霜的是中后期又接连爆发宝历饥馑、天明大饥荒和天保大饥荒,促使新庄藩的年贡锐减,债务在天保2年(1831年)时,仅江户便已达约94,000两,这相当于新庄藩三至四年的收入,人口在宝历9年(1758年)时也锐减至约45,000人。其后,家老吉高勘解由继承第十一任藩主户泽正令的改革精神,实施财政紧缩、强制备粮、种植漆树桑树、鼓励养蚕和开垦新田等多项政策,促使财政有所改善,人口也稍为增加[1][9]。
戊辰战争爆发后,新庄藩最初与奥羽镇抚军副总督泽为量一同攻打庄内藩失利,其后倒戈参加奥羽列藩同盟。庆应4年7月11日(1868年8月28日),新庄藩在主寝坂峠合战时再度倒戈,此举惹怒了庄内藩,最终导致新庄城在同年7月14日(8月31日)失守,城下化为灰烬,末任藩主户泽正实则逃至秋田藩,直至70天后才收复失地。明治2年6月2日(1869年7月10日),正实获赐赏典禄一万五千石,其后废藩置县[1]。
历任藩主
大名家 | 家格 | 藩主 | 石高 |
---|---|---|---|
户泽氏 | 外样大名 城主大名 |
户泽政盛 | 六万石→六万八千二百石 |
外样大名→愿谱代 城主大名 |
户泽正诚 | 六万八千二百石 | |
愿谱代 城主大名 |
户泽正庸 | ||
户泽正胜 | |||
户泽正谌 | |||
户泽正产 | |||
户泽正良 | |||
户泽正亲 | |||
户泽正胤 | |||
户泽正令 | |||
户泽正实 |
领地
新庄藩的领地如下,基于相给,领地也有可能同时是皇室领、公家领、幕府领、其他藩领、旗本领或寺社领。
令制国 | 郡 | 町村数目 | 领地 |
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羽前国 | 村山郡 | 18村 | 北口町村、工藤小路村、吉田村、岩木村、汤野泽村、樽石村、长善寺村、大久保村、宝田村、新吉田村、横山村、冨并村、大槙村、稻下村、白鸟村、上野村、山内村、田泽村 |
最上郡 | 86村 | 全域 |
参考资料
- ^ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 大友义助. 新庄藩. 木村础、藤野保、村上直 (编). 藩史大事典 北海道・東北編 1 POD版. 雄山阁. 2002-04-15: 393–410. ISBN 4-639-10033-7 (日语).
- ^ 2.0 2.1 広報 しんじょう 02 (PDF). 新庄市. 2015-02-09 [2022-07-11]. (原始内容存档 (PDF)于2022-06-19) (日语).
- ^ 安部晃司、陶木友治、仲藤里美. 江戸三百藩 まるごとデータブック. 人文社. 2007-04: 32. ISBN 978-4-795-91750-7 (日语).
- ^ 儿玉幸多、石冢裕道、小川信、北原进、坂诰秀一、段木一行、森田悌、吉原健一郎 (编). 東京都の地名. 日本历史地名大系 13 JapanKnowledge. 平凡社. 2002-07-01. ISBN 4-582-49013-1 (日语).
- ^ 竹内理三、北原进、杉山博、竹内诚、所理喜夫、西垣晴次 (编). 青山・三ツ目. 角川日本地名大辞典 東京都. 角川日本地名大辞典 13 日本文学Web図書館. 角川书店. 1978-10-27. ISBN 4-040-01130-9 (日语).
- ^ 胁田修、内田九州男、相苏一弘、今井修平、本城正徳、渡边忠司、薮田贯、村田路人、山口之夫、中尾芳治、服部昌之. 玉造上清水町. 直木孝次郎、森杉夫、大月明、河音能平、田代克己、户田芳实、服部昌之、福岛雅藏、三浦圭一、山口之夫、吉田晶、胁田修 (编). 大阪府の地名. 日本历史地名大系 28 JapanKnowledge. 平凡社. 1986-02-07. ISBN 4-582-49028-X (日语).
- ^ 中央区(旧東区)の町名(あ行). 大阪市中央区. 2020-01-24 [2022-07-11]. (原始内容存档于2021-07-09) (日语).
- ^ 半田市太郎. 新庄藩. 坂本太郎、关晃、臼井胜美、大石慎三郎、加藤友康、菊地勇次郎、笹山晴生、濑野精一郎、高村直助、土田直镇、鸟海靖、早川庄八、尾藤正英、福田丰彦、丸山雍成、皆川完一、安田元久、由井正臣 (编). 国史大辞典. 国史大辞典 6 JapanKnowledge (吉川弘文馆). 1985-11-01. ISBN 978-4-642-00506-7 (日语).
- ^ 9.0 9.1 竹内理三、北原进、杉山博、竹内诚、所理喜夫、西垣晴次、誉田庆恩、森芳三、横山昭男 (编). 新庄藩. 角川日本地名大辞典 山形県. 角川日本地名大辞典 6. 角川书店. 1981-12-08: 421–422. ISBN 4-040-01060-4 (日语).
- ^ 旧高旧領取調帳データベース. 国立历史民俗博物馆. [2022-07-09]. (原始内容存档于2020-11-25) (日语).
外部链接
- 新庄藩. kotobank (日语).
- 新庄藩|新庄デジタルアーカイブ. 新庄数字存档. [2022-07-11] (日语).