長井時秀
長井 時秀 | |
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時代 | 鎌倉時代中期 |
出生日期 | 仁治3年(1242年)[1] |
逝世日期 | 建武元年(1334年)7月 |
假名 | ながい ときひで |
羅馬字 | Nagai Tokihide |
改名 | 西規(法名) |
別名 | 長井太郎 |
朝廷官位 | 從五位備前守、宮內權大輔 |
幕府職位 | 鎌倉幕府引付眾、評定眾 |
氏族 | 大江氏姓長井氏 |
父母 | 父:長井泰秀 母:佐佐木信綱之女 |
姐妹 | 源雅光妻 那波政茂妻 |
正室 | 安達義景之女 |
子 | 長井宗秀 長井貞廣 |
女 | 斯波宗氏正室 |
長井時秀(日語:長井時秀/ながい ときひで Nagai Tokihide,1242年—?),又稱大江時秀[2],是日本鎌倉時代中期鎌倉幕府的御家人[3][2],父親是長井泰秀[3][2],母親是佐佐木信綱之女[2],正室是安達義景之女,法名西規[3]。
生涯
時秀的通稱是太郎[2][4],文獻上最早出現於《吾妻鏡》的寶治元年(1247年)11月15日條[5],當日時秀是鶴岡八幡宮放生會隨行人之一[6]。當時文獻上仍然是記載為長井太郎,因此當時秀理應尚未元服[7]。時秀出身的長井氏是以大江廣元的次子長井時廣為家祖的鎌倉幕府有力御家人[8],與得宗北條氏為烏帽子親的關係[9],與足利氏的足利家時一樣[10],時秀的「時」字來自北條得宗家的通字[11]。
建長6年(1254年),時秀的父親泰秀死後,他在翌年獲任命為第五引付眾,開始參與幕政[12][3][2]。自正嘉元年(1257年)開始[13][14]、文永元年(1264年)[15]和弘安5年(1282年)均曾經作為東使前往京都[16]。期間的正元元年(1259年)閏10月,時秀就任宮內權大輔[17],敘位從五位[18],文永2年則出任評定眾[19][3],文永8成(1271年)就任備前守[2]。另外,時秀在執權北條氏下擔任評定眾外,亦作為歷代將軍藤原賴經、藤原賴嗣和宗尊親王的側近而受到重用[2]。
建治元年(1275年),若宮八幡宮社重建,御家人均被要求出錢資助,長井氏則是次於200至500貫的北條氏一門和200貫足利氏,資助了180貫[20]。建治3年(1277年)12月,北條時宗嫡子北條貞時元服時,時秀則負責湯摩杯,後來成為其後見人[21]。
弘安7年(1284年),執權時宗死去,時秀便出家,自號西規[22],其後再未有相關紀錄[23],逝年不詳。後來由兒子長井宗秀繼位[24]。
時秀在父親處繼承的領地出羽國長井莊(現山形縣高畠町)建立了資福寺,後來出羽長井氏衰退後,資福寺受到伊達氏保護,伊達政宗亦曾經在住持虎哉宗乙處學習,伊達氏移封後,寺院亦跟隨搬至仙台市。
參考資料
- ^ 時秀的父親和兒子均在18歲時敘爵,因此推斷他在正元元年(1259年)就任宮內權大輔時為18歲(前田治幸「鎌倉幕府家格秩序における足利氏」 別表1註釈(8)、田中大喜 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻 下野足利氏』p.226),逆算下則是1242年出生。
- ^ 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 2.6 2.7 『朝日日本歴史人物事典』(コトバンク所収)「長井時秀」(執筆:佐々木文昭)より。
- ^ 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 安田、1990年、p.432 「長井時秀」の項(執筆:下山忍)。
- ^ 『デジタル版 日本人名大辭典+Plus』(コトバンク所収)「長井時秀」の項 より。
- ^ 『大日本史料』5編23冊143頁
- ^ 紺戸淳論文(『中央史學』二、1979年、p.16)。
- ^ 山野龍太郎論文(山本、2012年、p.162)より。
- ^ 『世界大百科事典 第2版』「長井氏]」の項 より。
- ^ 山野龍太郎論文(山本、2012年、p.163)。
- ^ 小谷俊彥 「北條氏の専制政治と足利氏」(所収:田中大喜 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻 下野足利氏』p.131)
- ^ 按紺戸論文內の系図(『中央史學』二、1979年、p.15系図)的說法,長井泰秀的名諱是來自北條泰時,時秀則是來自北條經時或北條時賴為烏帽子親關係,出生年份為1242年的話,時賴的說法則較為可信
- ^ 「吾妻鏡」12月1日條、『史料総覧』5編904冊808頁
- ^ 「吾妻鏡」10月30日條、『史料総覧』5編905冊23頁。
- ^ 延曆寺與園城寺之間爆發糾紛,時秀與大曾禰長泰一同作為調停使上洛(安田、1990年、p.432 /『デジタル版 日本人名大辭典+Plus』「長井時秀」の項)。
- ^ 「外記日記」「天台座主記」、『史料総覧』5編905冊97頁
- ^ 「勘仲記」『史料総覧』5編905冊267頁。
- ^ 「関東評定伝」『史料総覧』5編905冊39頁
- ^ 前田治幸「鎌倉幕府家格秩序における足利氏」 別表1註釈(8)(田中大喜 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻 下野足利氏』p.226)より。典拠は『関東評定衆伝』弘安5年條。
- ^ 「関東評定伝」『史料総覧』5編905冊106頁
- ^ 國立歴史民俗博物館所蔵「造六條八幡新宮用途支配事」、『寒河江市史 大江氏ならびに関係史料』p.390-397
- ^ 『建治三年記』12月2日條。
- ^ 『関東評定衆伝』弘安7年條。
- ^ 細川、2000年、巻末基礎表P.90-91。
- ^ 安田、1990年、p.432 「長井宗秀」の項(執筆:下山忍)。
參考文獻
- 安田元久. 鎌倉・室町人名事典コンパクト版. 新人物往來社. 1990. ISBN 978-4404017574.
- 細川重男. 鎌倉政権得宗専制論. 吉川弘文館. 1999. ISBN 978-4642027861.
- 五味文彥. 増補 吾妻鏡の方法―事実と神話にみる中世. 吉川弘文館. 2000. ISBN 978-4642077712.
- 山野龍太郎. 日本中世政治文化論の射程. 思文閣出版. 2012. ISBN 978-4-7842-1620-8.
- 寒河江市史編さん委員會. 大江氏ならびに関係史料. 寒河江市. 2001. NCID BA52392891.