岩倉宮忠成王
岩倉宮忠成王 | |||||||||||||||||
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日本王 | |||||||||||||||||
國家 | 日本 | ||||||||||||||||
時代 | 鎌倉時代 | ||||||||||||||||
姓 | (無) | ||||||||||||||||
名 | 忠成 | ||||||||||||||||
封爵 | 王 | ||||||||||||||||
宮號 | 岩倉宮 | ||||||||||||||||
出生 | 承久三年(1221年) 佐渡國 | ||||||||||||||||
逝世 | 弘安二年三月十一(1279年4月23日(58歲)) 山城國 | ||||||||||||||||
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日語寫法 | |
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日語原文 | 岩倉宮忠成王 |
假名 | いわくらのみやただなりおう |
岩倉宮忠成王(1221年—1279年4月23日),又稱為岩倉宮、廣御所宮,是鎌倉時代的皇族、順德天皇第五皇子。品位為無品。
略歷
仁治三年(1242年)正月初九,年僅12歲的四條天皇駕崩,生前未立皇太子。作為土御門天皇的皇子,邦仁王與忠成王一同列入了皇嗣候補。但是,當時的鎌倉幕府執權北條泰時拒絕考慮忠成王,因為他認為忠成王的父親順德天皇參與了承久之亂,他的後代不配成為天皇。於是,與承久之亂無關的土御門天皇的兒子——邦仁王登基,是爲後嵯峨天皇。
忠成王在寶治三年(1249年)二月二十五元服,賜宮號岩倉宮。
系譜
(77)後白河天皇 | (78)二條天皇 | (79)六條天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
以仁王 | 某王(北陸宮) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(80)高倉天皇 | (81)安德天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
亮子內親王 (殷富門院) | 守貞親王 (後高倉院) | (86)後堀河天皇 | (87)四條天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
式子內親王 | (82)後鳥羽天皇 | (83)土御門天皇 | (88)後嵯峨天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
覲子內親王 (宣陽門院) | (84)順德天皇 | (85)仲恭天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忠成王(岩倉宮) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
參考文獻
- 《尊卑分脈 第三篇》吉川弘文館、1987年