親鸞
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本名 | 松若磨、松若丸、十八公麿 | |||
號 | 善信房 | |||
法號 | 範宴 (叡山修行時) 綽空/善信/親鸞 (吉水入門後) | |||
出生 | 承安三年四月初一日(1173年5月21日) 日本京都・法界寺付近 | |||
圓寂 | 弘長二年十一月二十八日(1263年1月16日)(89歲) 日本京都・善法院 | |||
国籍 | 日本 | |||
宗派 | 淨土真宗 | |||
諡號 | 見真大師(1876年追贈) | |||
俗名 | 藤井善信(流放还俗时) | |||
俗姓 | 藤原北家日野氏流 | |||
尊称 | 親鸞聖人、宗祖聖人、開山聖人 | |||
妻 | 惠信尼 | |||
師承 | 法然 | |||
徒弟與學生 | 善鸞、如信、河和田的唯円、〔二十四輩〕性信、真佛、順信、乗然、信樂、成然、西念、證性、善性、是真、無為信、善念、信願、定信、入西(道円)、穴沢的入信、念信、八田的入信、明法(辯円)、慈善、唯佛、戸森的唯信、畠谷的唯信、鳥喰的唯円、 | |||
著作 | 『教行信証』、『三帖和讃』、『顯浄土真實教行証文類』、『正信念佛偈』、『入出二門偈』、『五会法事讃略抄』、『浄土和讃』、『高僧和讃』、『正像末和讃』 |
佛教 |
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親鸞(日语:親鸞/しんらん Shinran,1173年5月21日—1263年1月16日),日本鎌倉時代初期僧侶。又名範宴、绰空、善信。以天親、曇鸞各取一字,自稱親鸞,有時謙稱為愚秃亲鸾,諡號「見真大師」。淨土真宗之祖師。曾經在比叡山修行天台宗。后來投身净土宗,在源空门下学念佛他力教义,主張絕對他力、惡人正機。建立淨土真宗。在明治維新前,淨土真宗是日本唯一許可僧人可以結婚與肉食的佛教教派。
時代背景
- 1052年,日本佛教界盛傳末法時代來臨。
- 1156年,7月9日保元之亂爆發。
- 1159年,12月9日平治之亂爆發。
貴族階級間的鬥爭,造成當時日本政治、經濟與社會之動盪。
誕生
- 承安3年(1173年)4月1日,誕生於今日法界寺與日野誕生院附近(京都市伏見區日野)。父親是籐原氏族之分支,日野氏的日野有範母親據傳名為吉光女,並在聖人幼小時逝世。親鸞乳名有「松若磨」、「松若丸」及「十八公麿」。
出家
叡山修行
六角堂閉關
- 建仁元年(1201年)春天,29歲的親鸞離開比叡山,他繞道至六角堂頂法寺(京都市中京區) 禮拜聖德太子,於此閉關百日。閉關中親鸞在半夢半醒間和聖德太子所化身的救世觀音相見,救世觀音如此對親鸞說:「行者宿報設女犯。我成玉女身被犯。一生之間能莊嚴。臨終引導生極樂」意思就是如果你宿命就是要犯女色戒的話,那我就化身為女性讓你侵犯吧。用這樣的方式莊嚴你的人生,臨終的時候我會引導你到極樂世界去。如果只有守戒不犯女色可以成佛的話,那所謂的佛法不就只是那一小群和尚在獨佔,一般所謂的平民大眾根本就只能一生在六道間輪迴痛苦。面對這樣的矛盾,救世觀音給了親鸞這樣的答案。於是親鸞離開了比叡山,前往師事淨土信仰的高僧法然,投身彌陀淨土信仰。
修行淨土
- 親鸞禮當時淨土宗之源空(法然上人)為師,並改法號為 綽空。四年後,法號再次改成 善信。當時法然,因主張唯一修行念佛 (誦唸南無阿彌陀佛),而受其他佛教宗派排斥。法然寫七箇條制誡辯駁。1205年,奈良興福寺,上奏天皇要求去除法然的僧侶資格。[2]
流放
- 1206年,法然的兩徒弟住蓮與安樂二人,私自為兩個宮女剃度。土御門天皇大怒,住蓮與安樂二人被處死。法然與親鸞及其餘徒弟六人,被取消僧侶資格後流放。法然被冠上籐井元彥之俗名後,流放到四國島。親鸞則被冠上俗名籐井善信,流放到越後國 。當時日本規定,處罰僧侶前必須令其還俗,故給予新的俗名。[3][4]
結婚與獲赦免
- 於流放期間,親鸞與惠信尼結婚。1211年 (流放后的第五年) 法然等八人罪過被赦免,法然卻在回到京都後2個月逝世。
傳教
- 親鸞認為惡人也可以往生極樂世界,這導致關東出現「造惡無礙」的信徒,隨心所欲殺生。親鸞同情因為不得已而作壞事的人,但非常反對人故意去作壞事,他說「就算是有解藥,也沒必要喝鴆酒」,親鸞派其子善鸞去關東,宣達親鸞的說法。但善鸞處理不當,還被奸人蠱惑,控訴親鸞得力弟子性信等人,高齡八十四歲的親鸞為了止血,宣佈與善鸞斷絕父子關係。親鸞也因而提出惡人正機說,去糾正關東信徒的問題。[4]
圓寂
- 1263年,90歲的親鸞圓寂,後其幼女覺信尼繼續領導淨土真宗發展。
系谱
系谱
藤原鎌足 (中臣鎌足) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
定惠 (中臣真人) | 藤原不比等 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
藤原武智麻呂 | 藤原房前 〈藤原北家〉 | 藤原宇合 | 藤原麻呂 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
藤原鳥養 | 藤原永手 | 藤原真楯 | 藤原清河 | 藤原魚名 | 藤原御楯 | 藤原楓麻呂 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
藤原真永 | 藤原永継 | 藤原内麻呂 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
藤原真夏 〈真夏流〉 | 藤原冬嗣 〈藤原北家嫡流〉 | 藤原秋継 | 藤原桜麻呂 | 藤原福当麻呂 | 藤原長岡 | 藤原率 | 藤原愛発 | 藤原大津 | 藤原衛 | 藤原助 | 藤原収 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
藤原吉備雄 | 藤原越雄 | 藤原是雄 | 藤原多雄 | 藤原濱雄 | 藤原恒雄 | 藤原平雄 | 藤原松雄 | 藤原栢雄 | 藤原竹雄 | 藤原椿雄 | 藤原輔房 | 藤原関雄 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
藤原家宗 | 藤原門宗 | 藤原貞則 | 藤原飽永 | 藤原益友 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
藤原弘蔭 | 藤原継蔭 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
藤原繁時 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
藤原輔道 | 藤原輔忠 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
藤原有国 (日野有国) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
藤原広業 | 藤原資業 (日野資業) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
藤原家経 | 藤原實綱 (日野實綱) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
藤原正家 | 藤原有綱 | 藤原有信 (日野有信) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
藤原俊信 | 藤原實義 | 日野實光 | 藤原宗光 (日野宗光) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
日野資長 〈日野家嫡流[a]〉 | 藤原経尹[b] (日野経尹) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
藤原範綱[c][b] (日野範綱) | 藤原宗業[b] (日野宗業) | 藤原有範[b] (日野有範) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
玉日(九条兼實の娘?)[5] | 範宴→綽空 →親鸞 | 惠信尼[d] | 尋有 | 兼有 | 有意 | 行兼 | 藤原信綱 (日野信綱) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
印信[6] (範意) | 小黒女房 | 慈信房善鸞[7] | 信連房明信 | 益方入道有房 (道性) | 高野禅尼 | 小野宮禅念[e] | 覺信尼 | 藤原広綱[f] (日野広綱) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
注釋
- ^ 日野家嫡流…日野有国日野家7代当主 - 藤原資業日8代 - 藤原實綱日9代 - 藤原有信日10代 - 日野實光日11代 - 日野資長日12代 - 日野兼光日13代 - 日野資實日14代 - 日野家光日15代 - 日野資宣日16代 - 日野俊光日17代 - 日野資名日18代・・・
- ^ 2.0 2.1 2.2 2.3 経尹、範綱、有範について、『尊卑分脈』と『本願寺系図』とでは関係が異なる。本図は『本願寺系図』に依拠する。
- ^ 藤原範綱(日野範綱)…親鸞が得度(入室?)する時の養父。
- ^ 惠信尼…三善為教の子。諸説あり。
- ^ 小野宮禅念 - 覺信尼の後夫。
- ^ 藤原広綱 - 覺信尼の前夫。死別。
參考文獻
- ^ 中華民國親鸞會-親鸞生平. [2012-12-29]. (原始内容存档于2021-04-16).
- ^ 親鸞年表. [2012-12-29]. (原始内容存档于2016-12-14).
- ^ 佛光山-淨土真宗開祖親鸞上人. [2012-12-29]. (原始内容存档于2017-04-21).
- ^ 4.0 4.1 淨土真宗之宗祖 親鸞聖人傳. [2012-12-29]. (原始内容存档于2021-04-16).
- ^ (九条兼實の娘?) - 『日野一流系図』に、宴意(改印信)の母について「後法性寺摂政兼實公女」(九条兼實の娘)と記されている。兼實の日記『玉葉』に、兼實に2人の娘が記され、1人は後鳥羽天皇中宮の宜秋門院任子で、もう1人は4歳で亡くなっている(本願寺史料研究所報 第26号、平松令三「西本願寺蔵 古本本願寺系図について」 (页面存档备份,存于互联网档案馆)P.8、参照。)。
- ^ 印信 - 『日野一流系図』に、親鸞の長男は宴意(改印信)と記されている。
- ^ 善鸞の母については異説があり、惠信尼は継母で、實母は「善鸞義絶状」に記されている「みぶの女房」とする説がある。詳細は「善鸞#惠信尼との関係」参照。