萬多親王
萬多親王 | |||||||||||||
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日本親王 | |||||||||||||
國家 | 大和王朝 | ||||||||||||
時代 | 奈良時代末期、平安時代初期 | ||||||||||||
姓 | (無) | ||||||||||||
名 | 萬多 | ||||||||||||
封爵 | 二品親王→一品親王 | ||||||||||||
出生 | 延曆元年(788年) | ||||||||||||
逝世 | 天長七年四月二十一(830年5月16日(42歲)) | ||||||||||||
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經歷 | |||||||||||||
中務卿、式部卿、大宰帥 | |||||||||||||
日語寫法 | |
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日語原文 | 万多親王 |
假名 | まんだしんのう |
平文式罗马字 | Manta shin nō |
萬多親王(788年—830年5月16日),初名茨田親王,是日本奈良時代末期及平安時代初期的皇族,生父母是桓武天皇及藤原小屎。品位為二品。贈一品。
經歷
延曆十四年(795年)受賜周防國的田百町、山八百町。延曆二十年(801年)元服。
曾任中務卿,在弘仁八年(817年)敘三品。弘仁十四年(823年)改任式部卿。天長五年(828年)改任大宰帥,天長七年(830年)晉二品,同年中去世。享年43歲(虛歲)。他和右大臣藤原園人等人所編撰的《新撰姓氏錄》在弘仁五年(814年)完成。
略歷
- 延曆14年(795年)6月1日:周防國田百町、山八百町を賜る[1]
- 延曆20年(801年)11月9日:元服[2]
- 延曆23年(804年)正月2日:由茨田改名萬多[3]
- 弘仁8年(817年)正月7日:三品[4]
- 弘仁14年(823年)9月28日:式部卿[5]
- 天長5年(828年)正月12日:大宰帥[6]
- 天長7年(830年)4月1日:二品、4月21日:去世,贈一品[7]
系譜
(50)桓武天皇 | (51)平城天皇 | 高岳親王 | (在原)行平 | ||||||||||||||||||||||||||||
伊予親王 | 阿保親王 | (在原)業平 | |||||||||||||||||||||||||||||
万多親王 | (54)仁明天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||
(52)嵯峨天皇 | 有智子内親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||
(源)信 〔嵯峨源氏〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||
(源)融 〔嵯峨源氏〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||
(源)潔姫 (藤原良房妻) | |||||||||||||||||||||||||||||||
(53)淳和天皇 | 恒貞親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||
葛原親王 | (平)高棟 | 惟範 | |||||||||||||||||||||||||||||
高見王 | (平)高望〔桓武平氏〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||
(良岑)安世 | 遍昭 | 素性 | |||||||||||||||||||||||||||||