吉田藩 (伊予國)
吉田藩 | |
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日語漢字 | 吉田藩 |
平假名 | よしだはん |
羅馬拼音 | Yoshida-han |
創藩日期 | 明曆3年7月21日(1657年8月30日) |
創藩理由 | 分知 |
所在地 | 日本伊予國宇和郡吉田 |
藩廳 | 吉田陣屋 |
大名家 | 伊達家 |
伺候席 | 柳間,寬政年間 |
石高 | 30,000石 |
人口 | 53,481人 |
廢藩日期 | 明治4年7月14日(1871年8月29日) |
廢藩理由 | 廢藩置縣 |
吉田藩(日语:吉田藩/よしだはん Yoshida-han */?)是日本伊予國宇和郡吉田的藩[註 1] ,明曆3年7月21日(1657年8月30日)創藩,明治4年7月14日(1871年8月29日)廢藩,原本是宇和島藩的一部分,石高是30,000石,藩廳是吉田陣屋,藩校是創建於寬政6年11月13日(1794年12月5日),明治2年(1869年)改稱文武館,人口是9,569戶53,481人[1][2]。江戶藩邸方面,上屋敷位於南八丁堀,拜領自萬治元年(1658年),下屋敷則是白金,拜領自寬文元年12月15日(1662年2月3日)[3][註 2]。
歷史
明曆3年7月21日(1657年8月30日),宇和島藩藩主伊達秀宗分知30,000石予其五子伊達宗純,宗純在翌年正月於吉田開始建陣屋,萬治2年(1659年)7月前往陣屋。寬文2年(1662年),藩領中之川村、延野野村、永野市村、近永村和影平村通過替地,換來宇和島藩領北灘浦、蔣淵浦、下波浦、南君浦、上泊浦、川名津浦、喜木津浦和廣早浦。同年,吉田藩與宇和島藩在目黑村就藩界爆發爭論[註 1],其後直訴至江戶幕府,最終在寬文5年10月12日(1665年11月18日)才解決。貞享元年9月21日(1684年10月29日),吉田藩獲江戶幕府將軍德川綱吉下賜30,000石的領知朱印狀[1][2]。
元祿6年12月7日(1694年1月2日),伊達宗職次子作為伊達宗保的養子而繼位,即伊達村豐。元祿14年2月4日(1701年3月13日),村豐與赤穗藩藩主淺野長矩一同奉命擔任接待役(赤穗事件)。天明2年至寬政5年期間(1782年至1793年),吉田藩六度遭遇水災,總計損害達54,800石左右,加上火災和各種課役,導致財困。為了解決問題,吉田藩從大坂的豪商法華津屋借錢,並且通過接受藩內的御用商人以及豪農等的獻金,又強化對紙實行專賣以及增收年貢[1][2][6]。
寬政5年2月12日(3月23日),抗議對紙實行專賣的武左衛門一揆爆發,藩領83村中有80村參與,他們逃散至宇和島藩藩領中間村[註 1],聚集於八幡河原,打算強訴至宇和島藩藩主。對此,吉田藩調停不果,家老安藤繼明於一揆面前切腹,在宇和島藩介入此事後,最終在兩藩協議下,吉田藩全面承認一揆的要求,包括廢除對紙的專賣,事後吉田藩也成為宇和島藩的支藩。文化13年11月6日(1816年12月24日),伊達村壽四子作為伊達村芳養子而繼位,即伊達宗翰,天保14年6月24日(1843年7月21日),山口直勝三子作為宗翰養子而繼位,即伊達宗孝[1][2][7][8]。
元治元年11月1日(1864年11月29日),長州征伐爆發,吉田藩奉江戶幕府之命參戰,同年又將兵制從武田流改為西式,慶應2年11月6日(1866年12月12日)再將槍隊改為英式,砲隊則改成荷蘭式。戊辰戰爭爆發後,宗孝由於原本是幕臣之子,而且也常居於江戶,較為傾向佐幕,與藩士之間意見也有分歧。慶應3年(1867年)10月,宗孝接獲朝廷的上洛命令,仍然以患病為由推辭。慶應4年3月24日(1868年4月16日),宇和島藩前藩主伊達宗城認為宗孝的態度是在反抗朝廷,因此向宇和島藩藩主伊達宗德提出讓宇和島藩接管吉田藩,並且獲其同意。不過同年6月17日(8月5日),宗孝上洛,並且承諾盡忠後,接管一事作罷。同年7月23日(9月9日),宗孝隱居,由宗孝之兄山口直信的次子作為養子繼位,即伊達宗敬。由於宗敬年紀尚幼,因此藩務由宗德負責。箱館戰爭爆發後,吉田藩原本也與宇和島藩一同出兵,不過由於預定的輪船未有前來而未能成行。明治4年7月14日(1871年8月29日),廢藩置縣[2][9]。
歷任藩主
家名 | 家格 | 名稱 | 石高 | 藩領 |
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伊達家 | 外樣 陣屋 |
伊達宗純 | 30,000石 | 伊予國宇和郡 |
伊達宗保 | ||||
伊達村豐 | ||||
伊達村信 | ||||
伊達村賢 | ||||
伊達村芳 | ||||
伊達宗翰 | ||||
伊達宗孝 | ||||
伊達宗敬 |
領地
令制國 | 郡 | 領地 |
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伊予國 | 宇和郡 | 沖村、河內村、筋浦、花組浦、白浦、法花津浦、深浦、俵津浦、渡江浦、狩濱浦、皆江浦、藏貫浦、有太刀浦、有網代浦、安土浦、朝立浦、垣生浦、二及浦、周木浦、上泊浦、川名津浦、喜木津浦、廣早浦、深泥浦、立間尻浦、鶴間浦、淺川浦、南君浦、下波浦、蔣淵浦、北灘浦、是房村、能壽寺村、曾根村、務田村、迫目村、土居中村、增田村、吉波村、是延村、仲村、內深田村、出目村、目黑村、吉野村、蕨生村、奧野川村、興野野村、岩谷村、上川原淵村、小倉村、則村、大藤村、成家村、黑井地村、戶雁村、宮野下村、元宗村、增穗村、小澤川村、中野中村、波岡村、川之內村、田川村、金銅村、古藤田村、土居垣內村、大内村、兼近村、澤松村、清延村、國遠村、成藤村、中間村、黑川村、音地村、小松村、窪村、延川村、川上村、上大野村、父野川村、下嘉喜山村、日向谷村、上嘉喜山村、高野子村 |
註解
參考資料
- ^ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 竹內理三、北原進、杉山博、竹內誠、所理喜夫、西垣晴次、景浦勉 (编). 吉田藩・吉田県・吉田藩陣屋跡・中野川・延野々・永野市・近永・影之平村・北灘・蒋淵・下波・南君・上泊・川名津・喜木津・広早・目黒・中間. 角川日本地名大辞典 愛媛県. 角川日本地名大辭典 38 日本文学Web図書館. 角川書店. 1981-10-08. ISBN 4-040-01380-8 (日语).
- ^ 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 蔦優、橋本增洋. 吉田藩. 木村礎、藤野保、村上直 (编). 藩史大事典 中国・四国編 6 POD版. 雄山閣. 2002-04-15: 553–565. ISBN 4-639-10034-5 (日语).
- ^ 東京都 (编). 二 帝都(一). 東京市史稿 市街編. 東京市史稿 49 (東京都). 1960-03-25: 540–541 [2023-07-22]. 國立國會圖書館書誌ID:000001226894. (原始内容存档于2023-07-22) (日语).
- ^ 上屋敷 マップ. 人文學開放數據共同利用中心. [2023-07-22]. (原始内容存档于2022-08-15) (日语).
- ^ 竹內理三、北原進、杉山博、竹內誠、所理喜夫、西垣晴次 (编). 白金. 角川日本地名大辞典 東京都. 角川日本地名大辭典 13 日本文学Web図書館. 角川書店. 1978-10-27. ISBN 4-040-01130-9 (日语).
- ^ 伊達村豊. kotobank (日语).
- ^ 景浦勉. 伊予国吉田藩領寛政五年一揆. 坂本太郎、關晃、臼井勝美、大石慎三郎、加藤友康、菊地勇次郎、笹山晴生、瀨野精一郎、高村直助、土田直鎮、鳥海靖、早川庄八、尾藤正英、福田豐彥、丸山雍成、皆川完一、安田元久、由井正臣 (编). 国史大辞典. 國史大辭典 1 JapanKnowledge (吉川弘文館). 1979-03-01. ISBN 978-4-642-00501-2 (日语).
- ^ 景浦勉. 吉田藩. 坂本太郎、關晃、臼井勝美、大石慎三郎、加藤友康、菊地勇次郎、笹山晴生、瀨野精一郎、高村直助、土田直鎮、鳥海靖、早川庄八、尾藤正英、福田豐彥、丸山雍成、皆川完一、安田元久、由井正臣 (编). 国史大辞典. 國史大辭典 14 JapanKnowledge (吉川弘文館). 1993-04-01. ISBN 978-4-642-00514-2 (日语).
- ^ 菊地明. 吉田藩. 新人物往來社 (编). 三百藩戊辰戦争事典 下. 新人物往來社. 2000-01-25: 210–211. ISBN 4-404-02822-9 (日语).
- ^ 旧高旧領取調帳データベース. 國立歷史民俗博物館. [2023-07-12]. (原始内容存档于2020-11-25) (日语).
外部連結
- 吉田藩(伊予国). kotobank (日语).